青春を白く穢す



高校二年生の秋の事だった。クラスの女の子のほとんどは男の子と付き合っていて、経験の無い私は『遅れてる』と直接言われることは無くとも若干焦りを感じていた。いつも一緒に帰っている友達も彼氏の話ばかり。最近付き合い始めたばかりの癖に、あんたも早く作りなよ、と急かしてくる。それが嫌で仕方なかった。
秋の修学旅行までには彼氏を作らないといけない。一人で水族館を回っていたらきっとみんなにバカにされてしまうだろう。とは言っても私は異性の友達が少ない。小学校や中学校が同じで何度か話したことのある人もいるが、おそらく殆どは先客がいるだろう。

私には気になっている男の子がいる。吉良吉影くんだ。恋人や仲良い女の子がいるという話は聞かないが、係の時も荷物を持ってくれたりと優しく頭がいい。けれど、優秀であると同時に近づきにくさもあった。愛想が悪い訳では無いが何を考えているのかよく分からない所がある。この間なんか、黒板を消す私の横に立って手をじっと見つめてきたのだ。私が黒板を消し終わるまでの数分間、一言も発さず目移りもせず私の左手を見つめていた。

「吉良くんは趣味とかあるの?」
「……」

その日の放課後。教室に残って黒板を掃除している私の手をこの間と同じように見つめていた彼に話しかけてみた。すると彼は無言のまま視線を左手から私の横顔に移した。考え込むような素振り――動いた訳では無いが、そんなふうに見えたのである――を見せた後で、ゆっくりと口を開いた。

「ぼくは、本を読むのが好きだな」

ああ、これは私に話を合わせてくれているのだろう、となんとなく思った。きっと話しているのが私ではなく運動部の子だったらスポーツ観戦が趣味だと言うだろうし、クラスで人気のある女の子だったらドラマを見るのが趣味だと言うんだろう。なんだか、自分が地味だと言われているようで苛ついたが、私が本の虫であることは事実だった。

「私もよ。ねぇ、どんな本が好き?探偵小説は読む?シャーロック・ホームズは?」
「少し読んだが、ぼくは純文学派だからな……」

正直、もっと無口なのかと思っていた。太宰治などの文豪は文章が難しくて読むのが大変だと言ったら、分からないところは教えてくれるとまで言ってくれた。

「吉良くんは優しいのね」
「そんなことないよ」

期末テストが終わったばかりだからだろう。いつもなら勉強のために数人残っている教室も空っぽだ。開かれた窓から涼しい風に乗って運動部の掛け声が聞こえてくる。夕日に照らされた吉良くんはまるで恋愛映画の登場人物のように美しくて、なんだか私がスクリーンに飛び込んでしまったかのような気分だった。

「鴇子さん」
「どうし……!?」

ぼうっと吉良くんを見つめていると、突然両手を捕まれ黒板に押し付けられた。彼に見下ろされる体勢になった途端恐怖が私を襲った。黒板、さっき頑張って綺麗にしたのになあ、なんて考えるほどの余裕は無い。震えながらも勇気を振り絞った私が体を捩った瞬間。目を疑うような事が起きた。

「はあッ、鴇子さん……!」
「えっ!?ちょ、んっ、や、やめて!」

彼はチョークの粉で汚れたままの私の左手を口に含んだのだ。掴まれたままの右手を引き寄せられて抱きとめられる。なんとか逃れようと暴れたが、同い年の男の子に力で勝てるはずがない。彼の腕の中で震えることしかできなかった。人差し指、中指、薬指の先を堪能したかと思うと、今度は手のひらを味わい始めた。ぞわぞわとした不思議な何かが指から身体中へと溢れ出していく。
 
「ねぇ、や、やめてよ……ねぇッ、こわいよ、吉良くん……!」
「っ、鴇子さん、君は素晴らしい……!爪もしっかり整えてあるし、きらきらと光を跳ね返すような艶がある。トップコートを塗っているのか?それに、肌も非常に健康的で透き通る雪を連想させるような白だ……!あぁッ、ぼくのものにしたくて堪らない!君のその美しい手を大事にしまいこんで、誰にも触れられないように……」

激しくなった舌の動きに耐えられず思わず声を上げてしまった。顔を背けて羞恥に耐えていると、今度は彼が私の頬を撫でた。恐る恐る彼の方を見る。どろりと溶けだしそうな瞳に飲み込まれてしまいそうで怖かった。私の手を掴んだまま興奮したように息を荒らげている。

「ふふ……かわいいね。それに君は従順で大人しい……そのまま静かにしていてくれよ。そうしたら『上』も彼女にしてあげるからね」
「う、うえ?何言ってるの……?」
「ぼくは面倒事は嫌いなんだ。煩く喚くような女は嫌いなんだよ。だからいつも手だけを彼女にして……でも今ので癖になってしまった。生きている手から感じる熱や鼓動が愛おしくて仕方ない。切り落とした手は数日もすれば腐って穢れていく。だが生きている手はそうはいかない。本体が健康である限りは死ぬまでそこにあり続けるんだ。これ程魅力的なことが他にあると思うか?」

切り落とした手。その言葉を聞いて今朝のニュースが頭をよぎった。ここ杜王町で起きている連続殺人事件の被害者のものと思われる遺体が見つかった。それは二十代の女性で、右手首より下の部分が欠けている状態で倒れていたそうだ。その場に犯人の手がかりは残されておらず、唯一分かったのは犯人が刃物を使ったということだけだったという。

「あ、あなたまさか……」
「ああ、君の想像の通りだよ。大人しくぼくの言うことを聞くなら、君にも君の家族や友人にも手を出さないと約束しよう。ぼくは別に殺人で快楽を得ている訳じゃあ無いからね。君の手があれば他の手は必要ない。ただし……」

この事を他言すれば、君は始末する。
楽しそうに笑みを浮かべながら彼はそう言った。狂喜の笑みだった。逃げ出すことを諦めて吉影くんに身を委ねると、強く抱き締められて今度は両手を握られた。その手枷が外されることは二度とないだろう。そう私は確信した。